島原の実家にお正月、里帰りしていました。
いいところですよ、長崎県島原市。
湧き水の町です。用水路に鯉が泳いでいるんですよ^^
里帰りと言っても実はわたくし、大阪生まれの大阪育ちです。
生まれも育ちもしていない土地が4年前からふるさととなりました。
両親はずっと大阪で商売をしていたのですが4年前に引退、会社を私の弟に譲って故郷、島原に
帰りました。
そう、両親が生まれ育った町なのです。島原は。
私の子供の頃、祖父母が健在な間は私も良く田舎に帰っていました。
大好きなおじいちゃんとおばあちゃんのいた、島原。
その地に今、私の両親が居ます。
父はずっとずっと昔、商売人になりたくて大阪に出てきました。
大阪船場で丁稚奉公からはじめたと聞いています。
とても働き者の父です。たぶん、丁稚時代も良く働いて色んな人に可愛がられたのではないでしょうか。
そして独立、自分の会社を作りました。紳士服の製造販売の会社です。
しばらくの間は順風満帆。
たくさんの従業員を雇い、中小企業の社長としてはええかんじ(笑)だったと思います。
私の子供の頃、父に良くお店に連れて行ってもらっていました。
お店の横の喫茶店で良くひとりで時間をつぶしていました。
喫茶店に長時間、子供がひとりってどうなの?と今となって思いますが、当時の私には何故かそれが楽しくて仕方が無かったのです。
メニューは必ずサンドイッチとミックスジュース。
味さえも思い出せてしまいそうな位、強く記憶に残っています。
とても美味しかったです。(^^)
帰りの車の中で父が私に会社がどれほど儲かってるかの話をしてくれました。
小さい子供だと思って甘くみたのでしょう。父の言いたい放題、ひとり自慢大会でした。
今でも覚えてるんだから(笑)
ひとつひとつの出来事を思い出せば思い出すほど父の強烈な個性が浮き彫りになってくるようです。
そうです。普通の人ではありません。断じてありません。
自信満々の父ですが、ある時、谷底に突き落とされるような出来事が起こりました。
会社の倒産です。昭和48年、オイルショックの年です。連鎖倒産のあおりを受けたようです。
いくら自社が業績が良くてもそれを上回る大きな波に飲み込まれてしまう事があるんですよね。
父の会社の事が新聞に大きく載るほどでした。それさえも憶えています。
あの時の部屋の光景、新聞のにおい・・・
家も何もかも失いました。
私は当時、中学1年生。
この頃の出来事はまだまだ笑って話せるほど自分の中で消化出来ていないので、また今度と言う事で(^^;)
あんな事やこんな事がどうしようも無い位たくさん押し寄せて来ました。
それでも父は立ち直りました。
懲りずに、また会社を作っちゃいました。
そして、また懲りずに会社を倒産させてしまったのです(爆笑)
そうです、今となっては大爆笑です。
これらの事も書き出すと本1冊、書けてしまいますので、また今度と言う事で。
そして、そしてまた復活。
この復活劇がすごかったですね〜。人生結果オーオーライと言うのは父のためにある言葉じゃないかと思っています。
復活後、大儲け。
たんまり現金を持って田舎に家を建てました。
そして今に至る、と言う訳です。
豪快にもほどがある父。その父にずっと黙って付いて来た母。
母の苦労はどれほどだったかと思います。
父はいいんです、父は。好きな事をしてうまく行ったり、行かなかったりしているだけですので。
母はとても物静かで優しい人です。
子供の頃、父に殴られた(!)記憶はあっても母に怒られた記憶はありません。
父に黙って従い、子供たちを優しく包んでくれた母。
ふう。
かいつまんで書こうと思って極力、簡潔に書いたつもりがこの長さ(笑)
波乱万丈の人生を送り、やっと今、夫婦に静かな時が訪れました。
そんな両親に会いに行って来ました。
まだまだ元気で豪快な父。相変わらず回り(特に母)を振り回しています。
母も元気です。相変わらず物静かで優しい人です。
そんな母が私に言いました。
「今まで生きてきて、やっと生きてて良かったと思えるようになった。」
田舎に帰って月1回、学生時代の友達と遊んでいるようです。
今回エクセルで母のお友達名簿を作らされました、私(^^)
母の言葉を聞いて、本当に良かったと思いました。
生きてて良かった。この母の言葉には重みがあります。
私が軽はずみに連発する「生きてて良かった」とは値打ちが違います。はい、間違いなく。
いつまでも元気でいて欲しいと思いますが、もちろん人間ですのでそうも行かないでしょう。
今の父と母を見ているといつか訪れるその事も自然に受け止める事が出来るんだろうな、と思います。
何事にも動じない、強さを感じます。
人生の終わりも自然に自然に受け止める事が出来るようにいつか私もなりたいです。
豪快な父と優しい母のお話でした(^^)